Days on the Rove: FieldStudy

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2018/07/26

トークイベント「はじめての横浜暗渠散歩」@試聴室その3 終了しました!

7月21日に横浜の試聴室その3で開催されたトークイベント『~暗渠のそばに歴史あり。暗渠のそばに酒場あり。はま太郎・猫綱・暗渠マニアックスとめぐる…~はじめての横浜暗渠散歩』が無事に終了いたしました。
ご来場の皆様、会場となりました試聴室その3の皆様、会場準備と運営にご尽力頂いた星羊社さま、今回の企画の提案者(にしてメイン登壇者)の暗渠マニアックの吉村さま・高山さまに深く深く御礼申し上げます。

企画の経緯は、高山さんのブログ星羊社のサイトで説明されているので、割愛します。
が、セッティングだけで、後は当日の受付でも…と考えていた自分にまさかの登壇依頼があるとは!
(星羊社さんと暗渠マニアックのお二人を引き合わせた時点で、自分の仕事は、ほぼほぼ終わったと思っていたのになぁ…)

ここから深い悩みが始まったのです。

暗渠は好きだが、そこまで研究しているわけでも無い自分。いわば、雰囲気暗渠趣味者。
そんな自分が語れるテーマなんてあるのか…と、悩みました。
直近で、散歩がてらフィールドワークした磯子の暗渠群をテーマにすることにしたものの…
同じテーマで某横浜系サイトに記事があることを、テーマ決定後に発見。一時弱気になったものの、暗渠サインに拘ることで切り口を変えられると思い、突き進むことに。
暗渠サインと(他のメンバーはあまりしないと想像して)地形的な話の二本立てを考えたものの、地形の話が相当難しい。咀嚼できたとは思うが、俺が説明するとノイズが多いような気がして断念。暗渠サインのみで行くことにしたのだが…。
開催の一週間前の打ち合わせで、他の登壇者のスライドをざっくり鑑賞させて頂くと、そのクオリティに青ざめる。やばいよ…俺。どうする?俺?。
それに加えて自宅でトークの練習をすると、あまりにも時間が持たない。どうやっても15分程度で終わってしまう。再び頭を抱える俺。どうする、俺?
それで、思いついたのが。古い地図を加えて川の流れを明示するとともに、路上観察や地誌・地理的なことを加えていく(市電、区役所、水族館、養魚場、埋立による改変、都市形成史、路上観察的なことなど)手法。当日は結構省いたことも多かったけれど、それでも時間を若干オーバーしたぐらいには纏めることができた…かな。

でも、お客様に助けられたなぁ。バスの系統を訊いたりしてすぐに反応があるのがうれしかった(アドリブも結構飛び出していたしw)。でも、一番のポイントは「川界」の境界標。これは小田原在住のOさんに感謝。

自分があがり症だとか、プレゼンの出来がアレとか、声が震えていたとかをすっ飛ばして、お客様の反応に引っ張られたような気がします。結果、ちょっと愉しんでいた自分がいたことに、あとから気がつきました。結果、愉しんでいたんですよ、俺w。

心から信頼する友人の感想からの敷衍ですが、これからも好きなものを一途に愚直に追いかけていこうと思います。そしてそれを言葉にしていこうと改めて思いました。

本当にありがとうございました。そして、次回は?の声にちょっぴり反応してしている自分に、驚いています。次回…、あるのかなw?どうなることやらw

当日のTwitterまとめがアップされています。感謝。雰囲気が伝わるかな。

| 猫綱 | | FieldworkYokohama InsideoutFieldStudyExhibition感想Lifelog2018 | Comment (0)

2017/04/26

170423江ノ島道フィールドワーク(もしくはガイド顛末記)

自分が主催側に回る街歩きは2回目。ガイドをソロで務めるのは、今回が初めて。
緊張しましたがな。

藤沢宿から江ノ島へ続く江ノ島道の歴史と現在の移り変わりを中心に、地形(砂丘、後背湿地、河川改修、地名にみる過去の地形)、別荘/邸宅地(地形、人物、インフラ整備など)、果ては江ノ電ネタや1935年の県下名所・史蹟投票、防火帯建築の話まで盛りだくさんにガイドさせて頂きました。

あまりにも盛り込んだせいで、江ノ島にまでたどり着けない始末でした。これは反省事項ですね。

話したりなかったこと(クゲヌマランとか)、調べが足りなかったこと(落語大山詣りとの関係性、山本家、湘南白百合)があって、そこも反省。(時間との塩梅も難しいですね)

配布する資料もその塩梅が難しい。当日配布する資料は持ち歩きに便利にすべきだし、とはいえ伝えたいことは多い。難しいね。

伝えたいことが伝わったのか、面白がって頂けたのか、心配です。でも、どんな場所でも「深掘り」するだけの魅力があることが発見できたのは収穫です。コレハツギニイカシタイネw。

さて次はどの街を探検しますかね。お声掛かりがあるといいな。

| 猫綱 | | FieldworkFieldStudyLifelog2017 | Comment (0)

2016/06/26

鎌倉の古墳と微地形についての一考察

鎌倉市内で古墳時代の箱式の石棺墓と埋葬された人の骨が発掘されました。
石棺墓が見つかったのは鎌倉市由比ガ浜の海岸から400メートルほど内陸に入った遺跡の発掘現場です。
石棺は深さが45センチ、長さ2メートル30センチ幅およそ1メートルで、数十個の石が長方形に積み上げられています。
5世紀から7世紀ぐらいの古墳時代の石棺墓が鎌倉市内で発掘されたのは初めてですが、県内では13例目で主に三浦半島エリアで出土しています。
一方、人骨は身長が155センチほどで骨の形状や成長度の分析から10代半ばの男性と推測されています。
また6日には石棺墓近くで同じ古墳時代の地層から埋葬された子どもとみられる人の骨が新たに発見されました。
鎌倉市は発掘現場を今月12日に一般公開する予定です。

tvkニュースより(出典先リンク消失)

というニュースが話題になりました。場所は、(仮称)由比ガ浜こどもセンター建設地とのことです。以前旧鈴木邸といい、アントニン・レーモンド設計の邸宅があった場所になります。

鎌倉で古墳というと、向原古墳群というのがあります(した)。
いくつか古墳があったようですが、現存しているのは和田塚という駅名の元になった和田塚です。もとは無常堂塚と呼ばれたもので、 1892(明治25)年にその一部が削られたとのこと。和田塚という名の由来は和田合戦から来ているようですが、どこまで真実なのかは謎のようです。

また、采女塚という円墳が1887( 明治20 )年 に道路工事のため壊され、女子像・男子像・馬・円筒などの埴輪が出土した記録があるそうです。

鎌倉石棺研究2

大まかですが今回の石棺が見つかった場所と、和田塚の位置をプロットしたものと、カシミール3D+スーパー地形セットで書き出した微地形図をGoogle Earthで表示してみました。

旧市街の平地の中でも比較的標高の高い場所に位置しているのがわかります。
由比ヶ浜通りが全体として標高の高い尾根筋に当たるようにも見えますね。
地形的と古墳の位置に関連性があるような気がしてなりません。

こうなると他の向原古墳群の位置を詳しく調べてみたくなります。(今後追いかけてみたいですね)

鎌倉石棺研究1

| 猫綱 | | FieldStudy | Comment (0)

2014/05/08

これは震災復興橋梁だろうか?

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神奈川区に流れる滝の川に掛かる土橋という小さな橋の親柱。
軽自動車がぎりぎり通れるぐらいの橋なのにずいぶん立派な親柱があるので、震災復興橋梁ではないかと疑っている。

震災復興橋梁とは…と説明すると長くなるので、端折って説明する。
関東大震災後の復興・復旧として東京・横浜の都市計画の一環としてつくられた橋梁。大岡川に架かる橋が有名。親柱にデザインの特徴がある。(って、これでいいのかw横濱 Vol.44 2014年春号を参照してみるとよいです

場所はここ

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この橋の竣工は昭和4年。ちょうど震災復興で都市計画がされた時期。
やはり疑わしい…のかな?

今昔マップで確認してみると、震災前からある道(橋)ではあるようだし、うーむ

加えて近くには、滝の川に立派な雨水吐のポータルが。要石までついている。この川の護岸も疑わしい。うーむ。

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| 猫綱 | | FieldworkYokohama InsideoutFieldStudy | Comment (1)

2014/04/20

鎌倉の失われた温泉について その2

以前書いた、鎌倉の失われた温泉についての追加記事。

今回の記事は「としよりのはなし」鎌倉市教育委員会編平成2年第五刷より引用させていただいています。

1.山崎園について

p202(山崎ではなく寺分より抜粋)

「山崎にも温泉はあったが、そっちはバクチ宿だった。」

ええ?w

p213

「〜庚申塚は上と下にある。上のは打越、下のは八反目にある。下の庚申塔がみんなこば(端)が欠けているのは、中古に山崎園という温泉旅館があった。そこで毎晩のようにバクチがひらかれた。そのとき誰いうことなく、お庚申さまを欠いてもっていれば、負けない、と言うようになったためで、お庚申さんこそ迷惑なこったってことです」

バクチ場ですかw。ちょっと残念な気分。
途中に出てくる、打越、八反目は小字と確認。中古は発見できず。

p209に山崎の小字・小名がでていますが、この中に「熱海」、「湯の本」という文字を発見。「湯の本」は以前のブログでも紹介しましたが、「熱海」とは…。以前のブログで書いた「燃える湯」と何か関係があるのでしょうかね。

2.陣出園・神明温泉について

p202より引用。

「むかしから陣出温泉と神明温泉があったがどちらもいちまきだった。いまの工場ができるときにやめた。(国鉄大船工場の前身は海軍工廠深沢分工場として、昭和17年ごろ、町屋、寺分の山を崩して耕地を埋めてできた。)田んぼにふき出した鉱泉をわかした温泉だったが、よく湯治客が来ていた。」

いちまき…いちまきってなんですかね?辞書でそれらしいのは「一族」ぐらいかな。同族経営だったということなのでしょうか?

湯治客が来ていたそうなので、宣伝めいた物もあったのかなと思います。ちょっと探してみよう。

3.以前のブログでも触れた「亀ケ谷切通下の温泉」について

これは観光ガイドブック「かまくら手帖」(平成9年鎌倉市観光協会発行)より引用。

香風園

創業約90年の老舗旅館。木々が鬱蒼と生い茂る亀ガ谷切通しにひっそりと佇む。川端康成や里見弴など、多くの文士が訪れたことで有名。しっとりとした和風庭園や竹林に取り囲まれ、客室からは鎌倉ならではの谷戸の景色が堪能できる。庭内には鎌倉時代に湧出したという洞窟温泉風呂があり、その昔は源頼朝公や政子夫人も利用したという。
9室/2食付1万4000円〜(税別)/P5台
鎌倉市扇が谷3-10-21
0467(2*)****(引用者注。電話番号は一部*印で表記)

ああ、香風園でしたね。現在はマンション?になっています。いつ頃、宿をやめたのかは不明。結構早かった記憶はあるのですが…。

4.

友人が発見したネタ。

大船田園都市のチラシ「新鎌倉鳥瞰図(大正9年)」の隅、大船と北鎌倉に間あたりに「ラジウム温泉」の文字があるそうです。

結構ポピュラーな資料ですが、田園都市の街路に気をとられて、温泉の文字までは気がつきませんでした。

理想的住宅地新鎌倉案内(大船田園都市株式会社/1922)神奈川県立図書館所蔵(部分拡大)
理想的住宅地新鎌倉案内(大船田園都市株式会社/1922)神奈川県立図書館所蔵(部分拡大)

大船(おほふな)駅と鎌倉(かまくら)駅の間に、「ラヂウム温泉」の文字があります。
その文字の右上には天神山の文字。その麓にちいさな建物の姿がみえます。

前回も紹介した今昔マップで確認してみると

これは、同じ物でしょうね。当時、ある程度知られたものだったのかもしれません。
昭和2年に同じ山崎(といっても距離は離れていますが)に、北大路魯山人の星岡窯をつくっているぐらいの鄙びた場所だと思うのですがね…

(北鎌倉駅はこの絵図のできた5年後、1927年、仮停車場として開業したので記載はなくて当然です。念為)

今後は絵葉書、観光ガイドなどで、実際に当時の様子がわかる何かが見つかればいいですね。今後の研究課題のひとつです。

くわえて香風園についても、いつ頃閉館したのかなど調べておきたいですね。これは簡単にできそうですが…

| 猫綱 | | FieldStudy | Comment (2)

2014/04/10

[横浜検定]久良岐の初出について

第8回かながわ検定横浜ライセンス2級、感想戦6回目[歴史その3]で書いた久良岐郡の問題についてのフォロー記事。

問15

中区や磯子区などの地域は、久良岐郡と呼ばれていました。この久良岐の地名が最初に載った書物はどれでしょう。

①万葉集 ②日本書紀 ③続日本記 ④日本後紀

(正解②日本書紀)

参考資料とは指示されていない、よこはま百問2(神奈川新聞社刊)に解説が記載。

「「久良岐」の名の初出は、「日本書紀」の安閑天皇元年(西暦532年:引用者注)の条に見ることができる」

終了〜。
というわけにはいかないので、以下「久良岐」がでてくる部分を超訳。

武蔵国の国造(国主)一族の内乱が発生(本家と分家の国造争い)。
本家は大和朝廷に助けを求め、分家を征伐してもらう。
本家は分家の領地であった武蔵国南部を朝廷の直属領(屯倉(みやけ))として奉納する。
その四つの場所の名が「横淳(よこぬ)」、「橘花(たちばな)」、「多氷(たひ)」、「倉樔(くらす)」。
なんとなく聞き覚えのあるような名もありますが、「倉樔(くらす)」=「倉樹(くらき)」=「久良岐」ということらしいです。

7世紀後半、国郡里制がしかれる。
この時、横浜市域では「相模国鎌倉郡」、「武蔵国久良郡」、「武蔵国都筑郡」、「武蔵国橘樹郡」が設けられた。(テキストの地図では、市内に高座郡の一部もあったように書かれていますが…。瀬谷区・泉区あたりかな?)
八世紀半ば建立の武蔵国分寺からは「久良」の文字の入った瓦が出土している。

「日本書紀」の(書かれた時代区分が)あとの歴史書「続日本紀」には「久良(岐)郡」の文字がある。(正式の書物に「久良岐」が書かれたって事ですね。こういう問題も過去問でありました)
その部分をまたしても超訳。

「久良(岐)郡」で白い雉を捕らえ、朝廷に献上した。そのことが吉兆として喜ばれた。
そのため郡名の「久良(岐)」も尊ばれ、その年の久良岐郡の田祖(米の税金でしょうか?)が、三分の一を免除された。

なんだか、わかったのかわからなかったのか、わからない問題ですねw
でも、まあ、そういうことらしいです。

| 猫綱 | | FieldStudy | Comment (0)

2014/03/31

第8回かながわ検定横浜ライセンス2級、感想戦最終回[感想戦の感想戦]

感想戦をして気がついたことをまとめておきます。

●過去問がそのまま(もしくは一部改変)出題されていいます。
ただし、テキストや参考図書を読み込んでも、その回答を導き出せない問題が多数見られます。

●過去のテーマ問題が、他の分野(今回なら現代)で出題されています。
毎年、テーマ問題は設定されますが、参考資料の案内があるのはその年のみです。
つまり、過去のテーマ問題が何かであるとか、参考資料が何であるとかは、もう調べることはできません。
(過去のカナロコ問題が他分野で出題されているケースは見つけられませんでしたが、こちらも注意する必要がありそうです)

勉強する側にとってはテキストや参考資料が勉強の中心となるので、そこを中心(あくまで中心)とした出題をしていただきたいと思います。
(ちなみに鎌倉検定ではテキストから70%程度出題とうたっていますが、実際にはもっと多い印象です。何問か時事的な問題がある程度)

今後もこういった出題を続けるならば、過去問をすべて公開すべきです。そして過去問をも、参考資料としてあげるべきだと考えます。
ぜひ検討していただきたいと思います。

過去問を中心に勉強して、合格を目指すような本末転倒も生じるかもしれませんが、そこからテキストやほかの資料を読み込んでいく方も、少なからずいるはずです(と信じたい)。
(tvkショップで購入できる第1回から第4回までの過去問集には、テキストの参照すべきページが、ある程度記載されています。個人的には勉強になりました。)

これから検定を目指す方は、可能な限り過去問を入手することをおすすめします。ただし、鵜呑みにしないでそこから横浜の知識を広げていただきたいと思います。(心からお願いいたします)
あとは、せっかくあるセミナーや模試を活用するのも、ひとつの方法かもしれませんね。

さて、来年は一級ですね、一級は筆記になるので、どうなることやら。(そのまえに鎌倉検定の一級もあるわけで…w)

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| 猫綱 | | FieldStudy | Comment (0)

2014/03/29

第8回かながわ検定横浜ライセンス2級、感想戦6回目[歴史その3]

横浜検定2級の間違った問題を再検討。来年につなげ、自分の知識を深めるための感想戦。
ツッコミ・フォロー・コメント・質疑あればなんなりと。
今回は歴史の問題を再検討。その3回目、にしてすべてのおさらいの最終回。

問15

中区や磯子区などの地域は、久良岐郡と呼ばれていました。この久良岐の地名が最初に載った書物はどれでしょう。

①万葉集 ②日本書紀 ③続日本記 ④日本後紀

これが難問。(いつもの通り)テキストには無し。過去問にはあり。
(追記、過去に横浜百問2という参考資料があり。これにはでている模様)
久良岐の地名が載ったのは「②日本書紀」。律令国家の郡の名前、久良(くらき)が正式の記録に載った書物は「③続日本記」とのこと。(あくまで過去問などによればです)
この問題の場合、「久良岐」なので正解は②日本書紀。
①万葉集は歌集なのでひとまず置いて、②③④は編年体で書かれた歴史書(六国史)の連続した部分。律令制の確立からあたれば、答えが導き出せるのかな…?

この問題は他に調べようを見つけられていません。難しいですね。(追い記事をいつの日か書きたいものです)

万葉集以外から当てずっぽうに(回答③→正解②)

問33

平成22(2010)年に60年の歴史を閉じた「花月園競輪場」は何という愛称で市民に親しまれていたでしょう。

①丘の競輪場 ②ハマの競輪場 ③松葉の競輪場 ④山の競輪場

(いつもの通り)テキストには無し。過去問にはあり。(昨年の2級問題にも掲載w。昨年も間違えていましたw。しかも回答も今年と同じ物をw)

出典は見つけられませんでしたが、はまれぽ等でも記事になっている花月園ですので、わりあい簡単な問題ではないかと思います。

丘と山で悩み丘を選択。花月園のあった場所は「山」ではなく「丘」だと思うのですがね…(回答①→正解④)

問39

京浜地区の埋め立て地では、埋立に功績のあった実業家にちなんで付けられている地名が多く残っています。鶴見区扇島は誰の家紋にちなんだものでしょう。

①安田善次郎 ②高島嘉右衛門 ③原富太郎 ④浅野総一郎

過去問にはあり。(昨年の2級問題にも掲載w。昨年も間違えていましたw。回答はさすがに違いましたけど。③原富太郎)

テキストには掲載あり。
「鶴見区の扇島は、その埋立に尽力した浅野総一郎の家紋の「末広紋」にちなんでつけられた」(p247)
他に
鶴見区安善町は安田財閥創業者の「安田善次郎」から
神奈川区鈴繁町は埋め立てた横浜倉庫の取締役「鈴木繁一」から
神奈川区千若町は埋め立てた横浜倉庫の代表「千坂高雅」と「若尾幾造」から
西区高島町は「高島嘉右衛門」の名から
も掲載されています。

安善、高島は既知。原冨、浅野で悩み、原富太郎の埋立はないはずと考えつけば、直接わからなくても答えにたどり着けたはず。(浅野総一郎は自分のなかで、川崎と神奈川区のイメージが強すぎたのかもしれない)

(回答①→正解④)

いちおうこれで、すべての誤答のおさらいを終了。次回は今回の横浜検定2級の感想戦・猫綱的傾向と対策を(来年以降受ける方のために!)。

| 猫綱 | | FieldStudy | Comment (0)

2014/03/28

第8回かながわ検定横浜ライセンス2級、感想戦5回目[現代]

横浜検定2級の間違った問題を再検討。来年につなげ、自分の知識を深めるための感想戦。
ツッコミ・フォロー・コメント・質疑あればなんなりと。
今回は現代の問題を再検討。

問45

横浜中華街には10基の牌楼(引用者注:はいぼう パイファン paifāng)があります。元町商店街に近い南側にあって災厄を払い、福を招くといわれる門はどれでしょう。

①朝陽門 ②朱雀門 ③延平門 ④玄武門

テキストには記載無し。過去問には同様の問題は多数あり。
(参考図書にあげられている「よこはま百問」にも解説あり)

各牌楼の名前と意味などは中華街のHPに詳しい説明がある。 
位置も同じく中華街のHPから確認できる。

ちなみに自分がこの牌楼で覚えていたのは(東南西北=朝昼暮夜=青赤白黒=春夏秋冬)という関連性と、最初にできた牌楼が善隣門で1955年ということだけ。

それぞれの正確な位置は、さすがに覚えていませんでした。中華街、そんなに行ったことないものね(ハマっ子の中華街知らず、ですねw)

南側ということで朱雀門を最初に選択したものの、見直しの際に論外の①朝陽門(朝=東側)、④玄武門(玄武岩=黒=北側!)ではない③延平門を選択。延平門は白の門なので西側の門。ああ、最初の判断通りにしていれば…(回答③→正解②)

問50

七福神に達磨大師を加えた、全国でも珍しい七福神ならぬ八福神のある区はどこでしょう。

①港北区 ②瀬谷区 ③戸塚区 ④南区

テキストに記載無し。過去問にはあり。
ネット検索ではWikipedia区のHPにあり。
この問題に関しては過去問にあたれた人か、地元の方以外では難しいですね。
自分は(恨みをこめて)今後絶対に忘れません。

戸塚は論外(自分が聞いたことがない)。南区と瀬谷区でなやみ(港北は…ないよねぇ?)
結局南区を選択。(回答④→正解②)

問56

横浜商業高校(Y校)にある、国内でただ一つの珍しい別科はどれでしょう。

①トリマー養成 ②通関業務 ③バイヤー養成 ④理容・美容

テキストに掲載無し!お決まりの過去問にあり!
出典はどこなんですかね…

Y校故に、商業系の通関業務・バイヤー業務のどちらかかと考えたのだが…まさかねぇ。
(回答②→正解④)

追記:幾人かに聞いたら、ご存じの方もいらっしゃるようでw。まさか知らないのは…自分だけ?

問58

現在、日本中央競馬会が開催している次のG1レースのうち、根岸競馬場が起源の地となっているのはどれでしょう。

①天皇賞 ②有馬記念 ③ジャパンカップ ④宝塚記念

テキストに掲載無し!お決まりの過去問にあり!
しかも昨年の2級のテーマ問題でした!昨年の問題をさらっておけばw(しかも、昨年は正解w)

昨年の参考図書「季刊誌横浜」にはちゃんと掲載されています。
「春の天皇賞は1937年の帝室御賞典を第1回としてカウントしている。そしてこの御章典競走の起源がニッポン・レース・クラブ、1905(明治38)年5月の春季開催で実施されたエンペラーズ・カップであった。駐日英国公使が日露戦争中、日英友好の証をアピールするものとして、宮内庁にカップの下賜を申し入れていたが…」(p29一部略)

天皇賞とジャパンカップと迷い、結局ジャパンカップを。(回答③→正解①)

しかし、過去のテーマ問題を現代の問題として出題していいものなのでしょうか…

問60

横浜市に誕生したプロバスケットチーム「横浜ビー・コルセアーズ」の「コルセアーズ」の意味はどれでしょう。

①かもめたち ②海賊たち ③山賊たち ④天使たち

テキストに掲載無し!お決まりの過去問にあり!
しかも昨年の2級のテーマ問題でした!昨年の問題をさらっておけばw(しかも、昨年は正解w)

昨年の参考図書「季刊誌横浜」にはちゃんと掲載されています。
「横浜ビー・コルセアーズとはどういう意味か、ビーは「ベイ」や「ブルー」をなどを意味するB、コルセアーズとは海賊たちという意味で、勇敢に暴れる様子を表現する。通称「ビー・コル」だ。」(p14)

なんでカモメにしたのかなぁ…。カモメなら「ガル」ですよね…。うーん。
(回答①→正解②)

しかし、過去のテーマ問題を現代の問題として出題していいものなのでしょうか…
って、あれ?同じ様な文章を先ほど書いていたような…あれ?

一過性のテーマ問題にしないのは、確かに納得できるのですが。今年初めて(3級をするーして)2級をチャレンジする方には酷な問題ですよねぇ。

| 猫綱 | | FieldStudy | Comment (0)

2014/03/27

第8回かながわ検定横浜ライセンス2級、感想戦4回目[テーマ]

横浜検定2級の間違った問題を再検討。来年につなげ、自分の知識を深めるための感想戦。
ツッコミ・フォロー・コメント・質疑あればなんなりと。
今回は毎年それぞれに設定されるテーマ問題を再検討。

今年のテーマ問題は「横浜港を楽しむ」。
参考図書は「季刊誌横濱2013夏号Vol.41(ISBN978-4-87645-505-8)」テーマ問題と同名の特集

(ちなみに昨年は「横濱とスポーツ」。季刊誌横濱が、同じく参考図書でした)

問86

明治29(1896)年、日本郵船は横浜港と北米のどこの港との定期航路を開設したでしょう。

①シアトル ②サンフランシスコ ③サンディエゴ ④オークランド

横濱2013夏号Vol.41に正解あり。
「大さん橋の完成を待つかのように1896(明治29)年、日本郵船は北米シアトル、欧州、豪州の遠洋航路を開設した(p41)」
「外国航路の自立」「乗船客の大半は移民」「横浜港を大正期まで移民の送り出し港」(同じくp41)

他に
「1898(明治31)年、東洋汽船がサンフランシスコ航路を開いた」(同じくp41)
「1860年代、イギリスのP&O汽船(PO)はロンドンー上海航路を、フランスのメサジェリ・マリティム社(MM)はマルセイユー上海航路の支線をそれぞれ横浜まで延ばした。さらに太平洋では1867年アメリカのパシフィック・メール社(PM)がサンフランシスコー横浜ー香港航路を開設した(p40)」
氷川丸はシアトル・バンクーバー航路ですね。同じ日本郵船の秩父丸(鎌倉丸)はサンフランシスコ航路。
サンディエゴは航路があったのかは不明ですが、横浜最初の姉妹都市ですね(1951)。山下公園の水の守護神像はその際に贈られたもの。
オークランドも航路があったのかは不明。ただ日本人移民は多い町だったようですね。

PO・PM・氷川丸の航路は押さえていたものの、この問題はまったくわからず。
サンフランシスコ・シアトルで悩み、結局主要航路だったサンフランシスコを選択。(回答②→正解①)

ああ、日本郵船歴史博物館に久しぶりに行って、勉強しなくては!

問91

大正12(1923)年の関東大震災で横浜港は大きな被害を受けた。この被害からの横浜港の復旧工事が完了したのはいつでしょう。

①大正13(1924)年 ②大正15(1926)年 ③昭和3(1928)年 ④昭和6(1931)年

季刊誌横浜に記載あり。
「50日後の10月21日には内務省が復旧工事に着手した。港内の静穏を確保するため防波堤から着工した。(略)昼夜兼行作業の結果、大土木工事は1925(大正14)年に2年間という短期間のうちに終了した。(p41)」

あれ?2年??実は続きがあります。

「土木工事の進捗に合わせ、1924(大正13)年から大蔵省が陸上設備の復旧工事を行った。これによって、上屋、倉庫、道路、鉄道、電気設備、起重機などが一新された。(略)1931(昭和6)年3月、こうして横浜港の復旧工事は完了した。」

ちなみにテキストでは「応急仮設工事から開始し、(略)大正14年で一応完成…(p203)」とでています。

2年と覚えていたために、回答できず。結局、当てずっぽうで撃沈する羽目に。(回答③→正解④)

問95

戦後、瑞穂ふ頭がアメリカ軍により無期限使用になったため、替わりに建設されたふ頭はどれでしょう。

①出田町ふ頭 ②山内ふ頭 ③山下ふ頭 ④大黒ふ頭

参考図書に記載あり。
「1950年(略)接収解除運動を積極的に行ったが、進まなかった。このため国は(略)大開施設として出田町ふ頭と高島ふ頭3号さん橋を建設する。さらに瑞穂ふ頭がアメリカ軍の無期限使用になったため、替わりに山下ふ頭の建設が決まった。(p43)」
山内埠頭は震災後。大黒ふ頭は戦後の建設ですね。

接収代替埠頭は出田町と覚えていたので、これも間違い。うーん。
(回答①→正解③)

問97

現在、横浜港への年間客船寄港数は全国1位ですが、何年から全国一位でしょう。

①1973年 ②1983年 ③1993年 ④2003年

参考図書に記載あり(p44)。近年だろうと推測。ごく最近とはおもわなんだ。(回答③→正解④)
横浜が一位になる前はどこが一位の港だったのですかね?神戸??

テーマ問題は素直な問題がおおい印象。参考図書を買って隅から隅まで読めば、答えは必ずあるような気がします。

| 猫綱 | | FieldStudy | Comment (0)

2014/03/26

第8回かながわ検定横浜ライセンス2級、感想戦3回目[自然]

横浜検定2級の間違った問題を再検討。来年につなげ、自分の知識を深めるための感想戦。 歴史編ののこりは一旦置いて、自然編を。

問63

背の高いイネ科が生育する湿地や草地に好んですむ小型の在来ネズミ類で、横浜市内では絶滅危惧状態になっているのはどれでしょう。

①アカネズミ ②カヤネズミ ③クマネズミ ④ハタネズミ

テキストに記載無し。「在来ネズミ類は絶滅危惧状態となり…」と書かれているのみ(p72)。過去問には同様の問題はあり。
せいぜい、カヤ=茅→湿地?と気がつけば正答できるかな(無理筋w)。(ハタネズミも生育場所は同じような気もしますが…)
(回答③→正答②)

問66

蝶の一種であるツマグロヒョウモンが最近、横浜で見ることができるようになった理由は何でしょう。

①愛好家が放したため ②天敵が減少したため ③地球温暖化の影響 ④森が増加したため

テキストに記載されたチョウの話題を列挙する。
地形・地理相の違い:クロヒカゲ、ヒメキマダラセセリ、ホシミスジ
温暖化による影響:ツマグロヒョウモン 
絶滅:ツマグロキチョウ
絶滅危惧:オオムラサキ
都市植栽による個体数の増加:アオスジアゲハ
愛好家が放したための増加:アカボシゴマダラ

生物系は苦手。名前を聞いてもイメージが思い浮かばないのが痛い。
アカボシゴマダラとツマグロヒョウモンを取り違えて覚えていたのが敗因。
(回答①→正答③)

問70

横浜の希少植物のなかで、主に近畿以西、四国、九州に分布し、横浜市の一部(戸塚区、港南区)に希に生えている不連続分布の珍しい木は、次のどれでしょう。

①オオバヤシャブシ ②ガクアジサイ ③ネコノチチ ④ホルトノキ

テキストに記載があるのはネコノチチのみ。過去問には全く同じ問題がありました。
②は早々に排除。③は覚えているキーワード(横浜南部=ネコノチチ=名前の由来(実の形が猫の乳房状のため))に当てはまらず、除外。①と④から聞き覚えのある④を選択。(ヤシャブシだって知らないわけではありません。為念。)
(回答④→正解①)

しかし、ホルトノキをテキストのどこかで見かけたような気がするのですが…。他のなにかで最近読んだのかな…。

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2014/03/25

第8回かながわ検定横浜ライセンス2級、感想戦2回目[歴史2]

横浜検定2級の間違った問題を再検討。来年につなげ、自分の知識を深めるための感想戦。
歴史編の続き。その2

問21

明治22(1889)年に横浜の外国人居留地にあった工場で、県下で初めてストライキがありました。それはどの工場でしょう。

①綿紡績工場 ②生糸製糸工場 ③造船工場 ④製茶工場

p205に県下初のストライキについて記載あり。
居留地内にあったということで③造船は論外。②生糸製糸は内陸部(だろうと想像)。①綿紡績と④製茶でなやみ。結局綿紡績を選択した。
よくよく考えれば、開港初期の輸出品の一位二位は生糸と茶。問題をよく読んで、推論すれば正解に至ったはず。猛省。(回答①→正解④)
付け加えれば、綿紡績というかメリヤスは後年神戸港(関西圏)が主要輸出品であった記憶。横浜の比ではない。
更にもう一つ。絹織物は開港当初は輸入が輸出額を上回っていた。輸出が上回ったのは明治22(1889)年以降のこと。

問26

横浜市の人口は現在約370万人ですが、第二次大戦後の人口はどのくらいだったでしょう。

①約60万人 ②約80万人 ③約100万人 ④約120万人

テキストに直接の記載無し(過去問に同様の問題は発見)
テキストの人口統計グラフは昭和22年からのみ。ということで直接には調べられない。(昭和22年の段階でグラフの目盛りが80万人前後なので…というところ)

ちなみに昭和26(1951)年、100万人を突破。昭和43(1968)年、人口200万人を突破。名古屋市の人口を抜く。昭和53(1978)年、東京都区部に次いで大都市のうちで二位に。300万人を超えたのは昭和60(1985)年。350万人は平成14(2002)年。

というのはせめて把握しておきたいところ。

これは完全に当てずっぽう。(回答④→正解①)過去問なら…というところですかね。

問27

横浜は開国の地として、ホテルにも古い歴史があります。日本最初のホテルといわれるホテルの名称はどれでしょう。

①居留地ホテル ②横浜ホテル ③港ホテル ④グランドホテル

テキストに記載無し(またもや!)
手持ちの横浜タイムトリップガイド(講談社ISBN978-4-06-214896-6)のp89に以下の記述あり。

横浜ホテル(山下町70)万延元年(1860)オランダ人フフナーゲルが開業。文久3年(1863)には一旦閉鎖されたが、翌年キャリエ商会によって再開。横浜最初のホテルとされている。レストランはもとよりビリヤード場・バー・理容室・洋裁店などが入った本格的なホテルだった。慶応2年(1866)の大火で焼失。

過去問には同じ問題や、横浜ホテルに関する問題あり。

これも完全に当てずっぽう。4分の1の確率でしかない。(回答③→正解②)

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2014/03/24

第8回かながわ検定横浜ライセンス2級、感想戦1回目[歴史1]

横浜検定2級の間違った問題を再検討。来年につなげ、自分の知識を深めるための感想戦。
まずは歴史編のその1から

問7

アメリカ東インド艦隊に随行して、安政元年(1854)年ペリー提督の横浜上陸の様子を石版画に描いた画家は誰でしょう。

①ジョン・ウィルソン ②ペーター・ハイネ ③チャールズ・ワーグマン ④ジョルジュ・ビゴー

①はアメリカの写真家で、下岡蓮杖に写真術を伝授した人物。(p165)
③は絵入りロンドン・ニュースの特派画家兼通信員として来日。風刺画のポンチ絵で有名(ジャパン・パンチ)。高輪のイギリス公使館襲撃に出会わせ。「浪士乱入の図」を描いた。(p165)
④はイギリスの画家。お雇い外国人として来日。のち風刺画を描いた。(記載無し)
②はプロフィールの記載無し。ペリー提督の横浜上陸の様子の石版画に名前のみ(p53)

③,④は早々に選択から外したものの、①と2は全くわからず。(回答①→正解②)

問10

横浜市内で発見されている遺跡のうち、国指定の史跡は二つあります。三殿台遺跡と、もう一つはどれでしょう。

①市が尾横穴古墳群 ②稲荷前古墳群 ③野島貝塚 ④大塚・歳勝土遺跡

記載のみ列挙する。
①p100、②p99、③p91→横浜市の史跡に指定と記載、④p96〜99→昭和63年に国史跡と記載。

完全なケアレスミス。大塚・歳勝土遺跡が当然国史跡と知っていたのに…・
p34に『野島には、横浜で最も古い、横浜市指定史跡の縄文時代早期の野島貝塚、夏島には日本で最も古い国指定史跡の縄文時代草創期の夏島貝塚が位置する』という文章にひっぱられ、野島と夏島を取り違えたもの。夏島は横須賀市ですよね…。テキストのうのみではいけないな…。(回答③→正解④)

問15は要検討のため。今回は飛ばします(次回以降に)

問18

山手の丘の呼び名のうち、公使館書記官の住宅があったことから名付けられたのはどれでしょう。

①アメリカ山 ②イタリア山 ③トワンテ山 ④フランス山

② イタリア山…テキストに記載無し。Wikipediaには「1880年(明治13年)から1886年までイタリア領事館が置かれたことから、イタリア山と呼ばれている。」と記載。園内に外交官の家が移築されたが、これは日本人外交官のもの。渋谷・南平台から移築したもの。

③トワンテ山、④フランス山…記載無し。横浜開港後、居留民保護と居留地防衛を名目に、山手に英仏軍の駐屯を認めた。今のフランス山にはフランス軍が、そしてイギリス軍(第20連隊)が駐屯した場所はトワンテ山と呼ばれた。。トワンテとは「20」の英語音「トウェンティー」から付けられた。フランス山にはその後フランス領事館が建設された。

①アメリカ山…記載無し。「公園内に設置された解説によれば、1867年(慶応3年)に山手地区が外国人居留地として解放された際、公園の位置する山手97番地はアメリカ公使館の予定地だったらしい。しかし当時のアメリカ公使ヴァルケンバーグはここには住まず、山手27番地(現在の横浜山手女子中学校・高等学校)に居を構えた。山手97番地にはアメリカ公使館の書記官だったポートマンが暮らし…。」

イタリア山の領事館とフランス山の駐屯は思いだしたものの、あとは全く知らず。(トワンテなんて今回初めて知ったw)結局領事館を思いだしたイタリアで回答。(回答②→正解①)
テキストだけを読んでいても正答には至らない問題。…もしかして過去問にあったのかな?

今回はここまで。こんな形で誤答した問題すべての決着をつけるつもり。

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2014/03/05

鎌倉の失われた温泉について

過去にあった鎌倉の温泉(鉱泉)旅館についての覚書

範囲は旧鎌倉郡ではなく、現在の鎌倉市域とする。

現在の鎌倉市内で法的に登録されている鉱泉・温泉に関してはこちらの記事が詳しい。

1.山崎園

鎌倉市山崎小字「湯の本」。天神山西すそ付近。
温泉旅館は明治時代から戦前まで。「マッチを近づけると燃える水がある」という話から。(ラジウム?)
火傷や神経痛に効能。裏山の天神山に四国八十八カ所の石仏をつくり、参詣で賑わった。
「頼朝の隠し湯」とも。円覚寺でも利用?(時期理由不明)。「雁番屋」という地名も温泉に関係ある?(雁が鉱泉の水で傷を癒していた云々から…)
(出典資料、かまくら子ども風土記第9版)

「深」の文字の右上に温泉の地図記号と建物の形が見えます。
現在の三菱電機工場と山の際の道沿いということになりそうです。
当時の様子を想像するのは難しいです…ね。

2.陣出園・神明温泉

国鉄大船工場・州崎古戦場付近。ラジウム鉱泉で、陣出園、神明温泉という温泉旅館。 (出典資料、かまくら子ども風土記第9版)

山裾の小さな谷間に温泉記号発見。現在の地図と照らし合わせると、深沢幼稚園の麓あたりになりそうです。
陣出は小字から、州崎古戦場がらみの小字かな。 神明はちかくに神明社があった故ですかね?

(2014/05/30追記)
洲崎陣出の杜の会という深沢地区まちづくりの会が、当地のフィールドワークを行い、陣出温泉の井戸を確認したそうです。
これは!ちょっと見てみたいですねぇ。情報ありがとうございました。

おそらくふたつとも鉱泉なんでしょうね、東京南部から横浜周辺にも見られる黒湯・赤湯系の。

参考資料(大いなる神奈川の地盤  技報堂出版より抜粋)

神奈川温泉

鎌倉にもあるのだな、という印象です。当時の資料(図画、文献など)が見つかれば、また紹介していこうと考えています。

※そういえば亀ケ谷切通下に最近まで香風園がありましたね。

その2に続く

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2014/03/02

旧東西上屋倉庫の引込線のポイント

Untitled

現在、象の鼻パークになった東西上屋倉庫にあった引込線(’08/02撮影)。

このポイントの位置が、以前から不思議で仕方ありませんでした。
緑色のフェンスの向こうは大桟橋。中途半端な位置にポイントが付いているとはおもいませんか?

最近とある本を読んでいて、ようやく氷解。
大桟橋にも引込線がつながっていたのですね!

image

ただ、上屋倉庫と線路の関係を考えると疑問点も浮かぶのですが、それは今後の課題ってことで(笑)

こういうことをコツコツと調べていくのが楽しいのです。これが、自分の性(さが)なのでしょうねw。

<追記>

過去の官製地図では発見できなかった引込線なんですよね…

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2010/05/19

横浜に炭坑があった?(とりあえずのまとめ)

横浜に炭坑が?と言う驚きを、(とりあえず)まとめてみる記事。

きっかけは、横浜市戸塚区まちづくり倉田地区まちづくりプラン(http://www.city.yokohama.jp/me/totsuka/kusei/kurata.html)の中の史跡・名所の紹介欄に「下倉田(町名:筆者注)の亜炭」の文字があったこと。

横浜に亜炭?炭坑があったのか?!

まずは亜炭が何かを調べてみる。(wikipediaより

  • 亜炭(あたん、 lignite) とは石炭の中でも、最も石炭化度が低いものをいう。
  • 褐炭が褐色を呈するものが多いのに比べ、亜炭は褐色から暗灰色を呈する。
  • 続成作用を強く受けていないため、セコイヤなどの木片の組織が観察されることも多い。
  • 品質に関しては褐炭同様、石炭化が十分に進んでいないために不純物や水分を多く含み、得られる熱量が小さいことから、製鉄などの工業用途には向かない。
  • 日本では明治年間から1950年代まで全国各地で採掘され、主に家庭用燃料として重宝された。特に、第二次世界大戦中および直後においては、燃料の輸送事情が極端に悪化したため、大規模~中規模の都市の市街地などでも盛んに採掘が行われて利用された。
  • 亜炭は着火性が悪く、燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められた。
  • 2000年代の日本では、燃料としての亜炭の使用は皆無であり、輸入された亜炭(褐炭を含む)が飼料の添加物や土壌改良材などに用いられるのみである。

かなり質の良くない石炭の一種の様ですね。

つづいて、横浜市戸塚図書館の郷土資料紹介のページにて「ふるさと戸塚」という戸塚の古老への聞書き本に下倉田の亜炭についての記事があることを発見。早速借りてくる。

以下、要約。

  • 村人が発見。採掘するものの採算が取れず撤退。(時期不明)
  • 1916-17頃鉱山師が目をつけ測量調査。
  • 亜炭層が野庭(港南区)付近まであることを発見。採掘開始(野庭が先に開始)
  • 運び出しのため川沿いに県道までトロッコの軌道を敷設(1200mほど)。
  • 田畑の上に軌道の橋が100mほどかかっていた。
  • 後には軽便鉄道を戸塚駅まで敷設する話もあった。(!)
  • 採掘の最盛期は大正7,8年。
  • 亜炭層は30〜35cmほど(!)
  • 坑道は2段から3段で1000mの長さがあった(!)
  • 立坑(空気穴)は2ヶ所。(地名あり)
  • 昭和初期まで採掘されていた?

これ以上の資料は発見出来ず。一旦終了。

ツイッターで港南区の郷土誌本「こうなんの歴史アルバム」に炭坑の話題があることを知る。(@ktsksketchさん、感謝)

本は入手するとして、とりあえず港南区の炭坑についてネットで検索。(本は現在も未入手、なんとかしなくては)

現在はここまでで終了。

うーん、もっと判ったことが多いと思っていたが...意外と少ないのに愕然。

疑問点。要調査。

  • 亜炭層はどういう地層に含まれていたのか?
  • 亜炭層は実際にどの地域まで広がっているのか?
  • 亜炭層の成立年代はいつか?
  • 戸塚区側で亜炭坑関連の写真が残っていないか?
  • 地図等で(戸塚区側の)炭坑の痕跡は見つけられないか?
  • 具体的な坑道の形などがわからないか?
  • 正確な採掘時期がわからないか?
  • トロッコ線はどこに敷設されていたのか?
  • どういう組織が採掘していたのか?
  • 採掘の痕跡が現在でも何かしら残っていないか?
  • 都市化した地域だが現在でも亜炭が露出している場所がどこかにないか?(実物が見たい!)

などなど、気になることは一杯です。
資料を当たることと、土地の古老、郷土史家の方々に尋ねてみようと思います。

続報をまて!

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2010/04/20

横浜市泉区岡津町の富士塚


Flickr

時間がなかったのでケータイで一枚。そのうち調査予定。
雰囲気的には山田富士や六国見山のものと類似しているかな。
山腹・山頂に石碑4個。文字の欠落で読むのが困難かも。

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2010/04/18

横浜八景

とある本にでていた横浜八景についてまとめ。備忘録的に

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2010/04/09

荷風おじさんの散歩論 その2

というわけで荷風おじさんの散歩論第二篇です。

荷風随筆集 上 (岩波文庫)
荷風随筆集 上(岩波文庫)

日和下駄―一名東京散策記 (講談社文芸文庫)
日和下駄―一名東京散策記 (講談社文芸文庫)

※『日和下駄』以外の随筆も掲載されている岩波文庫版がお薦め。
しかも財布に優しいです(笑)字は小さめですけど。

また、青空文庫でも「日和下駄」は読む事が出来ます。チェックして見てください。

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2010/04/06

荷風おじさんの散歩論 その1

最近Twitterで散歩論的なものをつぶやいています。
あくまでつぶやきレベルなのでたいした内容ではないのですが、考え出すとなかなか面白いです。いつかはブログにまとめて見ようと思っています。
というわけで最近の読書は散歩・都市論関係の書籍を読む事が多いです。
そんな中、久しぶりに読み返したのが永井荷風の「日和下駄」。
永井荷風はフラヌール(都市遊歩者)にしてランティエ(高等遊民)、かつシングル・シンプルライフの実践者。何という贅沢な境地だろう(笑)
(この話は一度このブログでも取り上げていますね。cf.[荷風流Simple Life])

そんな荷風おじさん(リスペクトの意味も込めて、こう呼びます)の散歩論を読み解いて行こうと思います。

荷風随筆集 上 (岩波文庫)
荷風随筆集 上(岩波文庫)

日和下駄―一名東京散策記 (講談社文芸文庫)
日和下駄―一名東京散策記 (講談社文芸文庫)

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2010/02/13

大船の地霊(ゲニウス・ロキ)序論もしくは予告編

以下のようなテーマで不定期連載していく予定です。

10年以上前から暖めていたテーマ。

うまくまとめられるか自信ありませんが、書き連ねていこうと考えています。

皆さま、ご指導ご鞭撻、叱咤激励、資料提供、情報共有、栄養補給(?)よろしくお願いいたします。

書き出すきっかけを与えてくれたツイッターのフォロワーの皆さんに感謝。
(ツイッター上でこの話をつぶやいた時に読みたい!と声があがったので)

(章立ては一応予定です。変更があるかもしれません)

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2009/12/12

ブラタモリ横浜編を100倍楽しむための書籍&サイト

最近放映が待ち遠しいTV番組であるブラタモリ。
次回12/17放送では「横浜」を取り上げるとのことなので、
横浜原理主義者(*1)としては黙っているわけには行きません!

*1:横浜は横浜でも旧鎌倉郡域の人間がこう名乗るのはおこがましいという意見もあるが無視する

ということで猫綱が普段利用&チェックしているサイトや書籍をご紹介。
これらをチェックしてブラタモリ横浜編に備えよ!100倍楽しめ!(*2)

*2:当社比

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2009/12/10

方代という人

一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております

方代という歌人がいた。『かたよ』ではない『ほうだい』である。
子供たちに早世された両親が、「生き放題、死に放題」であるとして名付けた名前。
その名の通り方代は勝手気ままな人生を歩んでいた人。

出征中に失明した隻眼のせいか仕事無く家もない。
自費出版した処女歌集は19歳年上の姉に費用を無心したもの。
せっかく姉が用意してくれた仕事も弁当を持ってフラフラとさぼってしまう。

雨降ればつとめやすみて古本屋に歌集さがして一日を遊ぶ

五分間おくれてつきし古河電線門の扉はどつしり閉ぢをり

姉亡きあとは横浜南部の農家で作男として住み込むものの、まともに仕事もしない。いや出来ないのではない、やろうとしないのだ。
貧窮の中でも手放さなかったのは酒と煙草、そして短歌。
むしろ生活を捨てて、歌のみに生きたようにも見えてくる。
方代の歌は放浪の俳人、山頭火や放哉のように人口に膾炙していくだろうと、私は思う。

何のため四十八年過ぎたのか頭かしげてみてもわからず

力には力をもちてというような正しいことは通じないのよ

このようになまけていても人生にもっとも近く詩を書いている

赤子のような詩を書くひとがおりまして覗いてみると寝そべっている

貧乏な詩人が一人住みついて酒をたしなみめしは食べない

卓袱台の上の土瓶に心中をうちあけてより楽になりたり

こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり

空の徳利に盃をふせて遠くからながめていると夜が明けてゆく

自らの貧窮や孤独を歌っているのにもかかわらず、その筆致はどこか明るい。
暗い諦念や厭世観に苛まれていないように見える。
しかし本当の方代はどうだったのだろうか.....

おのずからもれ出る嘘のかなしみがすべてでもあるお許しあれよ

方代はほら吹きであった。
いや、ほら吹きでは意味が違うかもしれない。
自分の身の上や現在の境遇を語るとき、作家的虚構と(ちょっとばかりの)虚栄心の上で語られるのである。
歌のためには自分の過去を美化することも厭わないということである。
そして聞き手を喜ばせるべくの過剰なサービス精神の出現なのでもあろう。
それらはもうほら吹きの範疇を超えて、自分の人生そのものを歌の世界の虚構に利用したということなのではないだろうか.....

蓬髪、面妖な風体で奇行の目立つ人物である。普通の人なら忌諱しかねないような人物である。だが、方代のまわりには彼を支える人々が多くいたようだ。
彼が来るたびに小遣いを与える住職、彼の作歌の上の秘書役を買って出た人、自宅の庭に彼の住まいを用意した人などなど.....
どうやら歌の才能だけではなく、人に愛される何かを持っていた人なのだろう。

ここらあたりは相州鎌倉郡字手広艸庵の札下げて籠もりたり

齢57にして、ようやく鎌倉市手広に小さな庵を持つ。無論自分で建てたのではない、支援者の一人が自宅の庭にプレハブ小屋を用意してくれたのである。
それからが彼の奇行、作歌にも神韻を帯びるのだがそれはまた別の機会に書こうと思う。

彼の評伝を読みながら、ずっと考えていたのが太宰治との類似性だ。
過剰なサービス精神と読者に語りかけてくるかのような筆致。
自らの半生でさえ作品に利用してしまいながらも、どこか真実の吐露はしていない虚構性。
奇行を繰り返した魂の漂泊者であるとことも何か似ているような気がしている。
放哉、山頭火になぞらえる人も多いが自分は太宰治になぞらえて見たいと思う。

というわけで、しばらくの間、山崎方代という人を私的に研究してみようと思う。

ちなみに彼が鎌倉市手広で暮らす前に住んでいた横浜市戸塚区(現・栄区)田谷は、実家のほぼ近所である。
年譜を見る限り、彼とすれ違ったかもしれないという可能性はわずかにありそうなのである。そんなところも彼に興味を持った理由の一つかもしれない。

現在の田谷の風景。工場と建売住宅に囲まれたが、いまでも広い水田が残っている。



無用の達人 山崎方代 (角川ソフィア文庫)
田澤 拓也
角川学芸出版 ( 2009-06-25 )
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